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Channel: MOTO GUZZI な おじさんの趣味とこだわりについて
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どかまん的蒸気機関車の旅 第3章 老兵9600型 米坂線 後編 と 磐越西線のD51が牽くSL列車の旅 

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追記じゃなく、新たにUPすることにした。
 
 
イメージ 1
これが何処で撮ったものか判らない・・・・。
山間部じゃなく、だいぶ平地に降りてきた場所かも知れないが、記憶が無い。
 
右手前に写りこんでる弓矢みたいなのは、スプリングポイント,通称Sポイントである。  単線の路線では駅のホームの前後に必ずある車両交換用に上り下り2股に分岐させる為の線路切り替え装置だ。
 
ローカル線の場合、駅員が常駐していない場合も多く、ポイント繰り替え手がいなくても勝手に上下線の車両がそれぞれのホームに入線でるようにレールの可動部分がスプリングで引っ張ってあり、最初から切り替えられているポイントのことだ。 ホームを出発し、先のポイントを通過する際は、車両の重さでポイントを無理やり押しながら再び本線に進入できる。
 
その際スプリングが車輪の重さで押し開かれ、スプリングのテンションで可動部分が戻る際、バチン!ガキン!と乗ってる車両の床下で音がする。
 
鉄道マニアがその音を聞いて、おお~Sポイント通過したぁ~と心の中で呟くのである。バカですねぇ~~ 笑
 
話を戻して・・・
客車を引く9600なんてどう見ても米坂線だが、手ノ子の駅付近はこんなに広々と田畑が広がっていた記憶が無いし、背景の山が遠すぎる。
 
ジモティの KAWAさん! これ何処か判りますか~~!笑
 
 
 
 
 
午後の撮影を終え、行動を共にした2人のおじさん達にまた何処かの撮影地で再会する約束をし、別れの挨拶をして、羽前沼沢から下りの9600が牽引するオハ(客車)に乗って今日の宿泊予定地の小国駅へ向かった。
 
イメージ 3
<イメージ写真>
 
実質上、今回の米坂線の撮影旅行はこれで終了だ。これから先は、なるべくSLの牽引する列車に乗り、米坂線の終点というか、一度日本海に出て、新潟側の起点の坂町で羽越本線に乗り換え、新潟経由で磐越西線で会津若松に入り、夜行列車で大宮に帰ってくるという予定を立てていた。
 
 
羽前沼沢からしばらく9600はあえぐようにさっき我々が撮影したポイントを登り、やがてトンネルに入った。
4月初旬とはいえ、ここは山形の奥深い飯豊連峰の南の山裾、関東の人間にとっては立派な冬だ。当然客車の窓を開けてる者はいない・・・というか、乗ってる人間が居ない。 何処からとなく吐き出した煙が室内に入ってきて、鼻の奥にSLの吐き出した煤の臭いがプンっと広がる。    間もなく、隣り駅の伊左領との間の幻の撮影地といわれる有名な撮影ポイントであり、且つ峠のピークでもある、トンネルとトンネルの間の僅かな間に存在する鉄橋部分に差し掛かる。
 
ここが米沢側と裏日本との分水嶺だろう。
 
それまで規則的な25パーミルの急勾配を登る、4拍子の不等間爆発のバァ、バァッ、ブォッ、ブォッ!バァ、バァッ、ブォッ、ブォッ!というドラフトと共にトンネルの中のゴワァーという音が共鳴する騒音に9600特有のやや甲高い ポォ~ワァ~ッ!という汽笛が重なり、暗かった客車が3秒ほど西陽が差し、一瞬辺りが明るくなった。
僕はあわてて進行方位左、つまり南側のボックス座席に飛び移り、窓にオデコをつけて眼下を見た。
 
ガガンゴゴン、ガガンゴゴンと2回だけ橋梁を渡るボギー台車の音が響き、再び暗いトンネルに突入していった。
 
ほんの一瞬だったが、切り立ったトンネルとトンネルの間のアーチ型の橋梁の10mくらい下には、大理石のような白っぽくてグリーンがかった岩肌を真っ青な雪解け水が水しぶきを上げて流れ落ちている様が見えた。  
ここは流石に徒歩ではアプローチできない大人の撮影ポイントだなと思った。
 
興奮が冷め、我に帰ると、既にトンネルは抜け、さっきまで耳に響いていたドラフト音はなりを潜め、軽快な絶気運転のレール音だけになっている。
さっきまでの重々しさと違うその軽やかなレール音は、どうやら峠を越えたことを僕等に知らせているようだった。
 
 さっきのトンネル間の橋梁付近が米沢の盆地と裏日本との分水嶺だろう。
 
しばらく勾配を下り、峠から2つ目のやや開けた街並みといえる集落の駅に僕等を乗せた客車は到着した。 小国駅である。
 
陽は落ちていたが、時間は5時前ごろだった。 山と反対側の駅の南側に幼稚園の園庭ほどの駅前広場がある。 
 
初めて降り立った町でその日の宿を探すのはとても不安だが、何だかワクワクもする。 
 
ここは夜行列車が通るような幹線じゃないから、駅も最終列車が終わると閉まってしまう。よってホームや待合室に寝ることは出来ない。4月とはいえ、ここは北国の豪雪地帯だ。 野宿は無理。 ましてや母親が居るではないか!
 
まぁ 僕の母親の場合はシュラフで野宿は問題ない人なのだが、宿に泊まる予定なのでシュラフなんて持参していない。
 
今ほど便利じゃないし、事前に調べて宿の予約なんてする気も無かったし、平日だったこともあり、米坂線沿線で一番大きな町の小国町なら宿くらいすぐ見つかると踏んでいた。
 
改札を出て、駅の正面を見ると、何やら旅館らしき佇まいの2間間口の宿があった。名前は覚えていないが駅の真正面だった。
 
母親と2人でそこに入り、翌朝の4:50の坂道行きの始発に乗るので、朝食も今夜の夕食もいらない素泊まりできるか?と聞くと、すんなり了解をもらえ、
何の苦労もなく、今夜の暖かい部屋と布団が確保できた。
 
宿泊費は確か素泊まりで一人¥1200だったか¥1500だったような気がする。部屋は3方障子張りの小さな4畳半の暗い質素なものだったが僕等にはそれで十分だった。
 
それにその頃のユースホステル代は確か一泊¥500~¥700位、シーツ代¥150、朝飯¥150、夕飯¥250~¥350、トータル1泊2食で、¥1500でおつりが十分もらえた記憶がある。
 
素泊まりなら相場はそんなもんだろう。だってその5年後、北海道の道東の定宿だった浜小清水の「おばちゃんの家」という民宿は凄まじいほどの量の美味い山海の料理と酒と、搾ぼりたての牛乳飲み放題で¥2500だったからねぇ~
 
夕食は何処で食べたか記憶に無いが、多分駅前の食堂でラーメンみたいな質素なものを食べたに違いない。
 
僕等の他に、2,3人の宿泊客が居たような気配があったが、僕は顔は合わせなかった。 宿の中は、ただただ薄暗く、まるで盛岡の日が当らない町屋の実家のような印象だった。 今思えば、夕暮れに入って、陽も昇らない早朝に宿を出たのだから、明るいイメージなわけが無い。ただただ便所に有るような橙色の15W程度の暗い裸電球の灯りと狭い廊下だけが記憶にある。
 
4時半頃の始発に乗る予定だったので、4時に起き、宿を出ようと宿代を払うと、女将(タダのおばさん)が竹の子の皮に包んだ梅干入りのおにぎり2つを
それぞれ汽車の中で食べるように・・と僕等にくれた。 嬉しかった。 
 
宿を出てすぐにホームに入線している9600が牽引する客車の車両に乗り込んだ。 当然先頭車。 デッキ越しに9600のプレートが見えるが寒いのでドアは閉めた。
 
僕と母親以外に大きな荷物を背負ったままボックス席に妙な態勢で座っている行商のおばあちゃん達と大きな風呂敷に入った箱を担いだグレーのシャッポを被った背広姿の男以外は誰もいないガラーンとした車両。  
 
ここで僕も背負っていたリュックからPENTAXをおもむろに出して手入れを始める。昨日撮り終えたフィルムを巻き取って取り出し、レンズも外した状態でシャッターを何回か切ってみた。 するとPENTAX S3のミラーがペタリと上に張り付いたまま降りなくなってしまった。フォーカルプレーンシャッターはちゃんと閉じているのでバルブ開放の状態ではない。
 
つまり故障である。 後で知ったことだがPENTAXによく起きる致命的なシャッタートラブルのミラーアップという故障だった。 実は中学時代の3年間、幾度となくこの故障で悩まされることになる。 
 
まぁ米坂線の9600型は撮れていたので、これから先は予定通りSLが牽引する列車の旅に専念し撮影は二の次にすることにした。
 
あ~それにしても、PENTAXのこと、父親になんて言い訳しようか・・・? 
とぼんやり考えながらも腹が減ったのでさっき貰ったおにぎりを頬張る。
 
母親は、クッションの無い垂直の飴色に光る板の背もたれの座席がいたく気に入ったみたいで、車窓の下を流れる大きな河を見ながらおにぎりを食べていた。
 
そのおにぎりの味だが、梅干が甘酸っぱくて、盛岡の婆ちゃんが作る杏の梅干の味と似ていた。同じ東北だもんな・・・。
 
 しかし、婆ちゃんの柔らかいご飯と違い、幼馴染みのケンちゃんの母さんが作るような僕の好きな固めのご飯だったので、とても美味かった。
 
ここで母親がおもむろに僕に言った。 昨日泊まったあの宿は・・・商人宿といって、行商人専門の宿なんです。 全国にこういう宿が有って、こうやって安い宿を転々としながら行商を続けるんです。 あそこの背広の人は、同じ宿に泊まっていました。 多分あの人は富山の薬売りの人です・・・。
 
僕の友人なら知っていることだが、 
息子にですます調で喋る相変わらず変な母親・・・
 
ふーん・・・なるほどね・・・! 四六のガマの油売りのおっちゃんも、こういう宿を使って渡り歩くのか・・? なんてデュークエイセスが歌うカエルのコーラスの唄を思い出していた。  がまはがまでも四六のガマ~~♪ って奴ね(笑)
 
また一つ社会勉強になって大人に近着いた気がしたが、その後いつの間にか寝てしまい、目が覚めると坂町に着いていた。 灰色のどんよりとした空の背景に9600が乗った転車台と小さな扇形車庫が見えた。
 
生まれて初めての裏日本だったが辺りには雪は無かった。
 
そのまま羽越本線の電車(ここは早くから電化さていた)で新潟に行き、磐越西線に乗り換え、今度は大きな機関区がある新津に向かい会津若松行きのD51が牽く鈍行に乗り換えた。
 
間もなく列車は出発し、磐越西線は、しばらく川幅が広く雪解けの濁った水を湛え、ゆったり流れる阿賀野川を左に見て河沿いを走る。
 
蛇行する河に掛かる鉄橋を何回か渡り、やがて線路は川の北側の河岸を川に沿って走るようになった。
 
何処かで駅弁とお茶を買って食べたかもしれない。でも全く記憶には残っていない。記憶にあるのは、4月上旬の東北の山々に雪こそ無いが、まだ冬の景色で、色は無く、針葉樹の暗い藍色と、阿賀野川の濁った水面に反射する相変わらず曇天の空のグレーの世界が窓を流れていたことだけだ。その時の母親の記憶もないのだ。
 
 
実は新津駅で乗り換える際、30分ほど時間があったので、機関区を覗いてみたのだ。新津は当時SLが運用されていた羽越本線と磐越西線の中心的な機関区で相当数量のSLがいた。 
 
蒸気機関車の運転席の脇の形式プレートの下にある所属の所にある「新」という漢字は新潟ではなく、新見の意味で相当数の機関車があったが、その機関区の脇には、解体工場も併設されていたので、既に運用を終えて解体を待つ、胴体の上部や煙突、蒸気溜りのラクダの様なドームが赤茶色に錆びた車両が沢山あった。
 
まるでSLの墓場を見た気がした。おそらく10両以上のD51やC57が冷たい鉄の塊として解体を待っている姿を見ていたので、あいも変わらず先頭車のデッキのドアの向こうで、揺れるD51の真鍮のプレートと大きなライトを想像しつつ、
こうしてSLが牽く客車特有の左右の揺れに身を任せもうじきSLの運用が廃止される予定のこの路線にこうやって乗ってることが幸せだった。
 
 
 
ここで解説! 何故SLの牽く客車は左右に揺れるのか?
 
 
イメージ 2
それはそれぞれの動輪をリンクしているリンク棒が左右90度回転オフセットされ、つまりエンジンで言えばクランク軸が90度ずれている。振動を抑えるバランサーは動輪の連棒(連結ロッド)の180度反対側の位置の付いてはいるが、連結棒の先には大きな重量挙げ上げの重りのような鉄製のピストンが左右のシリンダーないでプッシュ/プルで往復しており、等間隔爆発ではなく、L型エンジンのように、クランク1回転で4回爆発するようなL型同軸4気筒エンジンなのである。 つまりピストン1往復で前後に2回爆発、それが左右で90度ずれているということだ。解るかなぁ~・・・・
 
ある意味ロータリーエンジンや2サイクルエンジンより高回転型のエンジンなんですが、思いピストンとリンクしたこれまた重い連結棒が90度ずれて回るもんだから、慣性が働き蒸気機関車自体が左右に30mmくらい(左右のレールと車輪のアローアンス分)車体を中心にして前から見ると左右に振れながら廃走るのである。だから135mmや200mmといった望遠レンズで真正面からSLを狙って見ていると、車体が幼い子がイヤイヤして身をよじるように走って来るのが判るのだ。 それが連結機を介し客車に伝わり、上から見ればまるで作用・反作用の実験のそれと同じように蛇の動きににた動きになりるのです。
 
知ったかコーナーはこれくらいにして・・・・
 
会津若松に着いてから、会津只見線のC11を撮りに只見線と会津線(現3セクの会津鉄道)の分岐駅の西若松に行って畑の中からMINOLTAで撮影した微かな記憶はあるが、肝心の写真が見つからない。
従って、 ここに掲載できず、この旅はここで終了という事になる。
 
今思えば、母親と2人きりでの最初で最後の旅だったような気がする。
もう四十数年前のことだが、名称等はかなり怪しいので書籍などで復習して書いているが、そのときの色や音、匂いなどは明確に覚えている。
 
 
 
長い間お付合いいただきまして恐縮です。
 
次回は これより更に3ヶ月前の正月。小学6年の冬休みに
秋田と岩手の豪雪地帯八幡平付近の日本最大級の急勾配33/1000パーミルに挑む、これまた大正時代の老兵8620型が面白い補機の編成で走る、花輪線を撮影した時の旅です!
 
僕の雪の厳冬期の初撮影旅行 乞うご期待!
 
 

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