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Channel: MOTO GUZZI な おじさんの趣味とこだわりについて
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ドカマン的蒸気機関車の旅 第4章 小6、僕の最初の始り

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小学5年生の冬に戦車のプラモデルとミニカーを卒業し、鉄道模型の扉を叩いた金井君と僕は、6年生の夏を迎えていた。
 
HOゲージに懲りだして約半年。僕が最初買った機関車はフリーランスモデルのED型の電気機関車(¥2,580)だったが、丘の上にそびえ立つ総檜造りの豪邸に住むボンボンの金井君はいきなり当時の花形EL(電気機関車)EF66(1万円超クラス)を買ったことは、何時だったかの記事に書いたと思う。
 
しかし、半年も経つと、やはりお互い憧れの大型SL(特急牽引型蒸気機関車)の模型が欲しくなるのは、あたりまえのこと。
 
しかし僕にとって蒸気機関車の値段は大型電気機関車のEF型(動輪がA、B、C、D、E、F の6個(ボギー台車で3個分付いている)の車両と同等以上の価格が付いていたため、なかなか容易に手に入る存在ではなかった。
 
ところが、ぼんぼんの金井くんは、最初に買ったEF66と同じカツミ模型の国鉄最大級のSL C59をポンと買ってもらったのだ。 おまけにカニ22というブルートレインの代表的な車両と2台の20系寝台車も一緒に・・・。
 
説明しよう・・・
 
いわゆる20系寝台特急、通称ブルートレインは歴史が古く、東京発の
九州各都市に向かう寝台特急、みずほ、富士、つばめ、さくら、そして上野発、青森行き、ゆうづる、はくつる、等があった。 いわゆるスワローエンジェルのC622号機が牽引したつばめの話はあまりにも有名。
 
そして当時の電化されていない時代は、豪華な設備で電気を多く使う寝台特急列車に電源を供給する為、大きなディーゼル発電機を積載し、余ったスペースに若干の貨物を積める車両が機関車のすぐ後に連結され運用されていたのだ。そのいわゆる電源車という車両が、カニ22 カニ21 という訳である!
 
話をもどして・・・・
実は当時の僕にとって、その価格以上に大型蒸気機関車が買えない大きな障壁があったのだ。
 
それはボギー台車の電気機関車なら我家のような文化住宅程度の4.5畳や6畳の狭い部屋でも敷ける12本組みと呼ばれる半径が小さい曲線レールでも走れたのだが、動輪と台車が同一直線状にある大型蒸気機関車の場合には、半径が大きい16本組や20本組という、R(半径)が緩いカーブレールじゃないと脱線してしまい走らせることが出来ないという問題があったのだ。
 
いつも線路を敷いて遊んでいた金井君ん家の部屋は家具が置いてない10畳間の茶室。 20本組みの曲線レールだって楽勝!
当然大型のC59が牽引するブルートレインは難なく走るのである。
 
それに較べて僕の部屋は家具だらけの4畳半・・・・。
とても16本レールを敷ける環境になかったのである。
 
だから走らせる時は、タンスだらけの6畳の部屋で辛うじて線路を牽いていた。
 
どうしても欲しかったので、自分の家は無理でも、金井君ん家でなら、走らせられると考えを改め、
 
イメージ 1
小遣いをためて、大金を握り締め、C59よりもデカい国鉄最強のSL
C62を買ったのだ!
 
 
イメージ 2
買ったのはC62 34号機だったが、その後C62 2号機 スワローエンジェルにするため、いろんなパーツをハンダ付けし、下手くそなカスタムやありえないカスタムを施した。
 
勿論ベビーパウダーを混ぜてつや消し塗装もやったが、既に45年が経ちいたる所が剥げている。
 
これも死ぬまでにレストアしたいんだよね・・・
 
 
 
 
しかし、実物というか実際のSLへ憧れが増すばかり・・・。
そこで、ボーイスカウト仲間のUDASANに相談したら、
 
9月の23日 彼岸の日に、お祖父ちゃんと八高線に写真を撮りに行くというので金井くんと一念発起し、僕等も便乗してSLの写真を生まれて初めて撮りに行くことにしたのだ。
 
 
当時首都圏で唯一SLが走っていた八高線(八王子~高崎間)は武甲山から切り出された石灰岩を秩父線寄居駅から東京方面に運び出すために、セメント列車を牽引するD51が頻繁に走っていた。
 
高麗川近隣にもお化け煙突4本が建っている日本セメントの工場があった。
 
 
イメージ 4
まだ小学生だったので、父さんのペンタックスのサブ機だったオリンパス35Kを借りた。 このカメラは、僕が小さい時分から、親と出かけた時に時々借りて撮らせてもらっていたので、露出んも合わせ方やシャッタースピードの感覚はわかっていた。
何回となく通った所沢基地の航空ショーや、羽田空港などで飛行機を撮った経験はあったし、暗い交通博物館で露出不測の船の写真を撮ったりもしていた。
 
また、飛行機や車など動いてるものならシャッタースピードが1/125や1/250で、晴れなら8~11、曇りなら3.5~5.6・・・静止しているなら、一コマ落として、一こま絞るみたいな・・・ま、そんな感じ。
カメラ趣味の父親のせいで、門前の小僧だったのかも知れない。
 
ってか、当時のカメラ小僧は小学生でもそれくらいは知っていたと思うけどね・・・
 
 
イメージ 3
大宮に出て、単線の川越線キハ24の気動車に乗り、僕等は浦和からアクセスが一番良い、高麗川駅を目指した。
 
 
 
初めてのSL撮影の日はあいにく雨だったが、オリンパス35Kと小さな三脚を入れたバックを持って、高麗川駅から、隣り駅の毛呂方面に少し歩いた所に鉄橋があるのだが、そこには何人かのマニアが既陣取っていたので、その先の比較的大きな鉄橋の手前の線路脇の土手に登り、毛呂方面に向かって三脚を構えた。
 
20分ぐらいで、鉄橋を渡る汽笛がして、雨の中、目当てのD51141が軽快なドラフトにバルブを開けドレインを吐き出す時のシューッという音をさせながら接近してくる。
 
初めての瞬間・・・。
見難い小さなオリンパス35Kのファインダーの中にやたらデカイD51の黒光りしたボイラーが飛び込んできて、夢中でシャッターを切った。
 
 
人生最初の記念すべき写真!
 
イメージ 5
酷い写真だね~~~!爆。  オリンパス35K ズイコー35mm 1/125 F5.6  
頭しか写っていない。 人様に見せるべき写真じゃないが、これも一つの記録としてみればまた意味があると言うもの・・・・。
 
大体ロケーションの選択が大失敗だよん。
 
 
 
そして通過と共雲台を右に回転させ、ドップラー効果でやや低くなったドラフトの音と共にカシャンコン・・・コロン カシャンコン・・コロンと いうクランクやロッド類が発する音に向かってまたシャッターを切る。
イメージ 6
これも初心者にありがちな、酷い写真!
 オリンパス35K ズイコー35mm 1/125 F5.6 
 
みーんな失敗して成長するんだもんね・・・! 笑
 
高崎方面から来た貨物列車は、高麗川駅でしばらく給水やら給炭を行う運行スケジュールだったので、慌てて高麗川駅構内に戻った。
 
イメージ 11
記念に駅で入場券を購入。
 
イメージ 7
ホームに入線してくる蒸気機関車は盛岡時代はしょっちゅう見ていたが、同じ地面の高さから、初めて近くで見る蒸気機関車は、凄くデカくて、立派に見え、熱を帯びたボイラーからの放射熱も着ている服の上からも伝わり、ただただこの生き物みたいな息遣いを感じる巨大な物体に小6の僕は打ちのめされるのだった。
 
イメージ 8
牽引してきた貨物を外し、給水などを行うD51141
 
 
イメージ 9
これもテンンダー(炭水車)が見切れている・・・・・・。
 
 
イメージ 10
記念の一発。金井君がシャッターを押してくれた。
ガキだね・・・しかし・・・。これでも自称SLマニアの仲間入り!
 
キャップは普段ヘラ鮒釣りに使ってるひさしが馬鹿でかい奴
 
これから約1年後に、あの壮絶な中一トリオ九州SL撮影の旅に繋がるのである。でも実際はその年の正月、一人で北東北の雪の花輪線に8620型を撮りに行ったんだけどね・・・。
 
改めて見ると、この頃から腕は長いし手のひらもデカかったようだね!
 
イメージ 12
 
イメージ 13
セメント列車用の小規模な操車場でもある構内で行ったり来たりを繰り返し・・・・貨車を繋ぐ作業をしていた。
 
 
イメージ 14
 
再び長いセメント原料を運ぶ貨車を連結して、D51141は八王子を目指し、勢い良くドレインを吐いて高麗川駅を出発していった。
 
 
これが、 僕の雨のけむる高麗川での ほろ苦SLマニアデビュー戦である。
 
高麗川駅の待合室で、大宮機関区にD51が整備に入るらしいという情報を仕入れたので、早速翌週、一人で、再び大宮駅を訪れた。
 
イメージ 17
今は無き、煉瓦の車庫があった大宮機関区。
この時既に川越線の9600も廃止になっており、SLは常駐しては居なかったと思う。
 
ここからすぐ南側の大きな大宮操車場(現さいたま新都心)にも煙とドラフトは無かったと記憶している。
 
イメージ 15
当時の1本しかない一番西の端にあるひなびた川越線のプラットホームの南端から線路に降り、大宮機関区のある方に向かってに歩いていくと、確かにD51516が整備を舞っていた。
ちゃんとボイラーに火も入った状態でいわゆる生きている。
 
 
 
イメージ 16思わず、後側の手すりバシゴを伝ってテンダー(炭水車)の上に登り
上からパチリ!
 
昔はこんなことやっても全然叱られなかったもんなぁ~・・・
 
遥か前方に見えるのは、大宮駅西口の駅ビル(現ルミネ)だろうか・・・
中央デパートてのも有ったが、高島屋がたったのはもっと後だった気がする。
 
しかし、何でこのタイミングでD51516が居たのかが不思議。
鶴見線のさよなら列車は昭和46年当時TVでも大騒ぎだったD51791だったはずだしなぁ~~。
 
何処の所属のD51だったのかね?でも当時SL走ってたのは鶴見くらいなものだからね・・・・。

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