伯備線の撮影を終え、ボンボンの金井君、秀才の阿蘇川君、そしてワシの中一3人組は再び夜行急行に乗って九州をめざした。
その時我々が持っていた九州周遊券の表紙
実際中にホチキスで止められていた九州周遊券B A券は確か最初に降りた駅で没収される。
学割で半額の¥4050だった。 途中下車した駅では改札でホチキスの小さいのみたいな形状をした駅名のハンコを押されるのだが、駅員によっては持っていないことがあり、ただ確認だけの場合があった。
この他、鹿児島本線では折尾駅、筑豊本線では、仲間駅、筑前内野 長崎本線では肥前山口、日豊本線では、南宮崎、青井岳、都城 霧島神宮・・・なども下車したのにもっとハンコが欲しかった。
そうそう・・・前回の伯備線の記事に桜島51号に乗って、指定券が大阪までしかなかったと書いたが、その時の指定券が見つかった。
大阪までの指定席急行券が¥600!
僕等が乗ったのはくすんだ青の42系急行型客車 スハフ42 1号車の一番前と記憶していたがそれは大阪以降の先頭のデッキに大学生と同類項で岡山まで過ごしたからで、実際は2号車16のABCだったようだ。 1号車の先頭ボックス席から顔を出してる金井君。
これは多分名古屋でしばらく停車していた時1号車に移動してきて撮ったの
かもしれない。 しかしこの後金井君と僕が名古屋のホームで牽引していた電気機関車EF58をホームに降りて、これは以前EF66の前に九州行の寝台特急のブルートレインをけん引していた機関車で今は格落ちの急行を牽居ているんだね・・・なんて言いながらしげしげと観察していたら、乗務交替する機関士さん達が僕等に声を掛けてくれ、何処まで行くんだ? 九州に行く記念に運転席に乗るか?と言われた。
最初冗談かと思ったが、どうやら本気らしいので、麻蘇川君に事情を伝え、交替で乗ることにして、僕と金井君の2人で最初に機関車の後のホームの反対側の扉に先頭車のデッキから連結器をまたいで後の運転席の扉を開け乗り移った。
幅50cmほどの暗くて狭い通路を通る。脇では停車中でも大きなコンバーターのような装置がゴー~~~と唸りを上げている。やがて先頭の運転席に繋がる小さな扉を開けるとEF58の運転席に出た。
中は3畳弱ほどの大きさで、大人が立つと天上は意外に低い感じだった。
今思えばトヨタのメガクルーザーの座席のような離れた機関士と助手席の配置に明るいグリーンだったか青の別珍の生地の四角い小さなシートが背後の壁に沿って配置されており、そこに2人は座らされた。
間もなく名古屋を出発するベルが鳴り、いよいよ桜島51号は走り始めた。
最初走り始めた時は興奮していたが、段々冷静になってくると、いろんなものが目に入ってくる。機関士の右前方には東海道本線の全ての駅名が入った運行表が貼ってあり、通過時間が15秒単位で記載されている。
急行なので主要駅以外は全て通過するのだが、その通過タイムが、殆ど遅れも早くもならず、14時33分15秒、 14時45分30秒、といった感じでピッタリ駅のホームを汽笛をピーッっと鳴らし通過していくのだ! 子供心にその正確さに驚くと共に世界に誇る日本の鉄道の凄さに感心した。
停車駅では、機関士さんや機関助手さんに駅員に見られるとまずいから伏せてろと言われ、そのたびに窓枠の下に嵌って身を伏せていた。
それがまた最高に面白ろかった。
関が原辺りでは、金井君と交替で機関士席に座らせてもらい、実際走行しているEF58のスロットルに手を掛けて
帽子まで被らせてもらい 記念写真を撮ってくれた。 何百人が乗っている実際90kmぐらいの速度で走っている桜島51号でだ!
今なら懲戒免職どころの話じゃないことだろうが、なんともいい時代だった。
我々は名古屋から関が原の峠をこえ、岐阜、大垣、米原辺りで麻蘇川君と交替する予定だったが、そんなことを繰り返してるう内に機会を逃し、とうとう大津、草津郡山を過ぎ京都まで来てしまい、やっともとのようにホームの反対側の通路を通り連結機を跨いで1号車に戻った。
お土産にと機関士さんがほんの今まで使っていた名古屋から京都までの運行表を抜いて、渡してくれた。
今でも淡い記憶に残る夢のような時間だった。
やや西に傾きかけた太陽に向かって走った関が原付近の東海道本線は、上りと下りが必ずしもパラレルに揃った複線ではなく、それぞれが勝手に蛇行する面白い区間なので、機関車の2つの窓からみる景色の記憶は未だに網膜に刻まれている。
昨年の桜が咲く頃、岐阜のおじさんの家に泊まって、ルマン会議の打ち合わせをした再、出張先の大阪から新幹線に乗るのが嫌だったので、大阪から大垣まで東海道本線の在来線に乗り、逆のコースで走ってみたが、方向が逆だったし、天候が季節はずれの雪混じりだったこともあり、記憶にあるイメージをトレースすることは叶わなかった。 今度もう一度名古屋~京都間、特に関が原付近を同じ時間帯同じ季節、同じ方向の在来線の先頭車に乗って走ってみたい。
僕等が交代で戻ると、一人で心細く2時間以上一人で過ごした麻蘇川君は、大阪まで乗る?と聞くと力なく首を横に振った。 何となく複雑な嫌悪感が自分の胸を支配していた。
でもその後は前回書いた記事どおり、岡山までヒッピー風の大学生に相手にしてもらい楽しい時間を過ごさせてもらった。
前置きがかなり長くなってしまった。
九州へは前日乗ってきた桜島51号に岡山で再び乗り夜中走って関門海峡を渡った。 小倉で目が覚めたので途中は全く記憶が全く無い。
九州最初の日はSL天国の路線、筑豊本線を撮る予定だった。
僕等は当時国鉄では珍しい立体交差構造の駅折尾駅(多分秋葉原とここくらい)で降りて、仲間駅方面に線路伝いに歩き、三脚を構えた。
D51382 筑豊本線 折尾~仲間 PENTAX S3 スーパータクマー 55mmF1.8 1/125
まだ筑豊炭鉱が十分稼動していた時代だったので、ひっきりなしに石炭列車や貨物列車がやってくる。
鹿児島本線がタダの複線だったのに、ここは本線とはいえローカル線、ところがその本数の多さから復復線になっていた。持ってきた運行ダイヤ表を見てもどの線からSLがやってくるのか全然わからず、カメラをセットしていると全く違う線路にドラフトが響いてSLが駆け上がってくるので、慌てて撮るもんだからろくな写真が撮れず苦労した記憶がある。
っていうか中一の小僧なので下手くその極み! 爆
c57170 筑豊本線 折尾~中間 PENTAX S3 スーパータクマー 135mm F3.5 1/250
大正時代の老兵 D50の軸重軽減改造車 D6032 筑豊本線 折尾~仲間 MINOLTA AL-Eロッコール 40mm F1.8 1/125
これは煙突がD51のように真っすぐなバケツ型の円筒形のD60でかなり珍しい。
D6025 筑豊本線 折尾~中間 PENTAX S3 スーパータクマー 135mm F3.5 1/250
これがオーソドックスなD50と見た目が同じような形煙突の形と前部のスチームだまりのタンクが特徴的なD60
ご覧の通り、軸重を軽くする・・・つまり線路への負担を軽くするために動輪の後の車輪をD50の1つから2つに改造されている。レールの規格が本線用の物よ1ラン細い準本線用のレールを使っているローカル線に適した形式だ。
筑豊本線の凄いとことろは、近隣の八幡製鉄所や若松港や直方機関区を拠点にして周辺の支線(後藤寺線・日田彦山線など)が複雑に絡んだ地域性もあり、若松~飯塚間は C11 D50 D60 8620 9600 C55 C57 D51 国鉄の殆どのSLが稼動していたので、 数分おきに夥しい本数のSL列車が走ってくるのだが、折尾~仲間間はロケーションというかあまり景色がよろしくないので、あまり良い感じの写真が撮れず、午前中の3時間でなんと飽きてしまったのだ。
腹もへったので、折尾駅前のしなびた食堂に入り一番安いラーメンを頼んだときに事件は起きたのだ。
何と出て来たラーメンがインスタントの塩ラーメンの出来損ないのような、変な臭いで味も今まで喰ったことのない、麺は生煮えで固い飛んでもない代物だった。 しかし小遣いも限られており食べない訳にいかず頑張ってなんとか食べ終えた。
入った店が失敗だったね・・・と反省し、また飛び込みでハズレな店に入ったら大変だということで、それから九州では一度もラーメンは食べなかった。
その後あの変なスープのラーメンは九州特有のラーメンだったと気が付いたのは、その後だいぶ経った社会人になってからで、吉祥寺に火の国ラーメンが出店し、そこで食べたラーメンが同じような味だった。
それがトラウマになったのか、今でも豚骨の白いスープはあまり得意ではない。
その点北海道で食べるラーメンは何処で食べても美味い。
午後からは接近している台風の影響で雨模様になったが、当時伯備線のD51の3重連と並び、筑豊本線の冷水峠越えでもD60の3重連の運用が見られたので、筑前山家駅へ向かい、筑前内野方面に1kmほど歩いた踏み切り近くで雨の中 D50+D60+?の3重連を待った。
伯備線で故障したペンタックスが何故か午前中、気まぐれに復活していたが、再びミラーアップしたままになりご臨終したので、バカ重いベルボンの三脚にまたMINOLTA AL-E 間抜けな感じでとりつけて撮影した。
どのくらい情けないかというと、N360にランクル60の足回りを付けた感じ。
めずらしい D60+D60+D50の3重連 筑豊本線 折尾~仲間 MINOLTA AL-E F1.8 40mm 1/125
やがて猛スピードで3重連は雨の中、湿った草いきれの臭いの中をあっという間に走り抜けて行ってしまった。 正直こんな峠で補機2台も必要なの?と思ったくらい迫力にかけた3重連だった。多分回送車が連結運転されていたのだろう・・・
買ったばかりのお気に入りのベージュのデザートブーツがこの雨でメロメロになってしまい、一発で型崩れしてしまったのがとても残念だったことが記憶に残っている。爆
その日は新飯塚駅で降り、初めて見る黒いボタ山に何故か圧倒されながら、長い山道を歩いて、山の上に建っている八木山ユースホステルに辿りついた。
人生初めてのユースホステルだったが、綺麗な施設だったが、記憶があまり無い。多分疲れすぎていたためだろう。
同泊の人達は皆高校生や大学生だった。
翌日は博多に戻り、唐津線経由で有田駅に向かい、何故か両親に夫婦茶碗のお土産を買ってから、長崎本線のC57を撮りに大村湾の駅をめざしたが、有田で時間をつぶしてしまい、時間がなくなってしまったので、早岐機関区構内で写真を撮った。我々の中で何故か有田焼がものすごくメジャーな存在だった。笑
C57 C11 早岐機関区 MINOLTA AL-E F1.8 40mm 1/125
ここでやっと北九州の特徴である 門司鉄道管理局のSL特有の 通称 門鉄デフ のC11と C57に出会えた。
門鉄デフのC57 MINOLTA AL-E F1.8 40mm 1/60
解説しよう・・・シリンダーの上の煙を上に立ち登らせる為の両脇の2枚の排煙板(デフレクター板)が門司鉄道管理局管内の車両は、通常のものと違い、簡素化されており軽快でスタイリッシュなのでSLファンには人気があった。その後SL末期には全国のローカル線に再配備され北海道でもその姿は見られた。
C57198 MINOLTA AL-E F1.8 40mm 1/125
大きな動輪が美しい旅客型機関車。
その後台風7号が接近し始め、その日中に金井君の親戚の家がある大分市まで九州を東西に横断しなければならなかったので、大急ぎで鳥栖に向けてDD51が牽く急行に乗りこんだ。
鳥栖で久大線に乗り換え、台風7号とおっかけっこをしながら大分に向かう。
途中、鉄橋を渡る度に川の水かさが増しているのが判り、おそらく我々が乗った急行が最後で、それ以降は全て運休だったろう。
乗れなかったら足止めだった。
大分に到着した時は夜も更けて、風雨は酷くなり、初めて体験する九州の台風の凄まじさにかなりビビッて金井君の親戚の家なのになかなか寝付けなかった。
風の凄さが違うと思ったものだ。
中一3人半ズボントリオ 左から 私 麻蘇川君 金井君 別府血の池地獄
佐賀関の岩浜にて まだまだ 立派なガキだった・・・
このころは写真の技術も全く知らず、ただ撮っていただけの酷いものばかり。
SLに対する熱も、どうだったかかなり怪しいもんだった。
九州に入ってたった2日で飽きてんだもんね・・・。
当時の九州は石炭の産地でもあり、蒸気機関車が沢山活躍していたのだ。
この後は日豊本線のC60やC61を追い、その後人吉機関区とB20が居る鹿児島機関区を目指し、時計周りで霧島神宮まで行ったが、台風7号の土砂崩れに阻まれて、そこで足止め。 時間はどんどんなくなり 泣く泣く引き返し、途中南宮崎の駅で野宿して、既に帰りの切符を手配していたので、そのまま小倉から東京に向かう桜島51号に再び乗ってヘロヘロになって浦和に帰ってきたのだ。
その日は、小倉の高架線のようなホームで食べたカシワうどんがものすごく美味かったこと以外は全く記憶が無い。多分24時間くらい列車の中で寝ていたのではないかと思う。笑
全日程11日 うち車中4泊 駅のホーム2泊 ユースホステル2泊 親戚の家2泊
帰宅したら当時、三十数キロだった体重が4kgも減っていた。
食べた物で記憶があるのは、新見で食べたワタナベの粉ジュースがシロップの他にかかっている馬鹿でかい標高30cmはあるカキ氷!と 大分で食べた地元のお菓子ザビエルと 最後の夕飯 小倉駅のホームのカシワうどん・・それくらいで
他はろくな物を食べてない。爆
昭和46年の夏、台風7号に翻弄された 僕らの最初の長距離の旅の顛末である。